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Landscapes by the roadside

路傍学会


塚のLandscape 76

江東区富岡 富岡八幡宮
   富岡八幡宮①
 江東区富岡一丁目、永代通りの路傍、高い幟の先に色鮮やかな大きな鳥居が聳えている。富岡八幡宮である。
  富岡八幡宮②
 鳥居の先に伊能忠敬の銅像がある。伊能忠敬は富岡八幡宮を参拝してから蝦夷地の測量に出掛けたという。銅像の左に見える半球状の石の中には三等三角点がある。ここの標高は1.18m。
  富岡八幡宮③
 手水鉢では、黄金色の鳳凰の口から水が出ていた。
  富岡八幡宮④
 境内の北西部に三末社がある。その内の1つ、金刀比羅神社と富士浅間神社である。
  富岡八幡宮⑤
 この社殿の後ろに富士塚がある。かつて富岡八幡宮には高さ6mにも及ぶ富士塚があったが、昭和40年代に撤去され、平成14年にこの姿に再建されたのである。
  富岡八幡宮⑥
 七渡弁天社には三猿が浮彫されている庚申塔が祀られているが、造立年は分からない。
  富岡八幡宮⑦
 境内奥にある横綱力士碑である。初めての幕府公認の勧進相撲はここ富岡八幡宮で行われたという。この巨大な石碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、明治33年に建立されたものである。江東区指定有形文化財。
  富岡八幡宮⑧
 歴代横綱の名が刻まれた碑もある。初場所で引退した稀勢の里の名もあった。左側にはどの力士の名が刻まれるのだろう。今の三役の中の誰かだろうか。路傍学会の興味は尽きない。
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青面金剛のLandscape 227

渋谷区渋谷 豊栄稲荷神社
   豊栄稲荷①
 渋谷区渋谷三丁目の路傍である。道路の左に見えるのは23日号で報告した金王八幡宮の玉垣である。道路の右側にも玉垣が見える。
  豊栄稲荷②
 玉垣の先、豊栄稲荷神社である。
  豊栄稲荷③
 石段の奥には鳥居が建ち並ぶ。
  豊栄稲荷④
 石段を登ると、石鳥居の右手に庚申塔が列をなしている。元々各所に建てられていたものが、都市化に伴い渋谷川畔にあった田中稲荷の境内に順次集められたのである。田中稲荷は区画整理により豊栄稲荷と名を改め現在地に遷座した。
  豊栄稲荷⑤
 これは右から三番目の青面金剛である。一邪鬼、二童子、三猿である。主尊は六臂の合掌像である。頭光がある。現地の解説板によると渋谷氏の名が見えるとあったが、分からなかった。
  豊栄稲荷⑥
 左から享保、元文、享保、享保年間の六臂の合掌像である。
  豊栄稲荷⑦
 上の写真の左から2番目の像である。ふっくらとしたフォルムである。豊栄稲荷神社に納められている庚申塔の中では最も新しいものである。
  豊栄稲荷⑧
 手水鉢の手前、葉蘭の中にも割れた庚申塔があった。延宝年間の作。
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  2. 青面金剛
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青面金剛のLandscape 226

文京区関口 椿山荘
   椿山荘①
 文京区関口二丁目、音羽通りの路傍に江戸川公園の大きな石碑が建っている。大正8年、東京市が整備した公園である。
  椿山荘②
 神田川沿いに公園の中を歩いて行くと、鳥居のような形をした石組が現れる。
  椿山荘③
 反対側から見るとこうなる。神田上水を通ってきた井の頭池の水は、関口大洗堰で堰き止めて水位調節をしてから江戸市中に引き込まれた。大洗堰の取水口には、石柱の間に板をはめ込み水量を調節する「角落」という仕組みがあった。ここにある石柱は、昭和8年に大洗堰が撤去された際に移されたものである。
  椿山荘④
 江戸名所図会に描かれた大洗堰である。石垣で固められた大変大きな施設である。画面左下には茶屋なども描かれ、ちょっとした名所だったようだ。
  椿山荘⑤
 神田川に架かる大滝橋である。この辺りに堰が設けられていたようだが、痕跡は見当たらない。後ろに見えるのは椿山荘である。
  椿山荘⑥
 久し振りに椿山荘の中を歩いていると、嬉しいものが目に入ってきた。
  椿山荘⑦
 現地の解説板によると、寛文年間の庚申塔で、この辺りに野道があった頃から現在の位置にあったという。これまで気がつかなかった。
  椿山荘⑧
 三面六臂像である。保存状態も良い。
  椿山荘⑨
 一猿が手にしているのは御幣か。両側から鶏に突かれているようである。綺麗な青面金剛に出会えたことに満足し、椿山荘を後にした。
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  2. 青面金剛
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神社のLandscape 189

江東区佐賀 佐賀稲荷神社
   佐賀稲荷①
 江東区佐賀二丁目の路傍に朱色の鳥居が見える。
  佐賀稲荷②
 佐賀稲荷神社である。寛永年間に創建された神社である。江戸時代、この界隈は各地の産物を集めた問屋や倉庫が建ち並んでいたという。明治以降は米問屋が集い、商売繁盛の稲荷として栄えた。
  佐賀稲荷③
 拝殿前には、明治19年に米問屋の「米仲間」が奉納した天水桶がある。
  佐賀稲荷④
 天水桶の横には力石が積み上げられている。
  佐賀稲荷⑤
 上の写真の下部中央の力石である。佐賀町徳次郎、芳次郎の名が刻まれている。
  佐賀稲荷⑥
 この石の左にある力石にも佐賀町徳次郎の名があった。一番右の石には深川幸太郎の名が読めた。倉庫業に携わった力持ちの名前なのであろうか。
  佐賀稲荷⑦
 境内の奥にも力石が並んでいた。倉庫で働く多くの力持ちが集ったのだろう。
  佐賀稲荷⑧
 本殿脇の樹木の根である。本殿の基礎にぶつかり、直角に曲がっている。どれ程の年月でこのような造形となるのだろう。路傍学会の興味は尽きない。
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  2. 神社
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神社のLandscape 188

渋谷区渋谷 金王八幡宮
   金王神社①
 渋谷区渋谷三丁目、路傍に大きな鳥居がある。金王八幡宮の一の鳥居である。
  金王神社②
 石段の上に二の鳥居が見える。
  金王神社③
 神門は、奥に見える社殿とともに、徳川家光が将軍世継に決まった折、春日局と青山伯耆守が寄進したものである。
  金王神社④
 拝殿の前に「渋谷城の砦の石」が置かれている。この辺りは平安時代末期から渋谷氏一族の居館「渋谷城」があったが、大永四年に北条氏により焼き払われたという。その砦の石垣に使われていた石である。
  金王神社⑤
 国旗掲揚塔は皇太子殿下(今上天皇)御生誕記念である。昭和9年建立。
  金王神社⑥
 拝殿である。春日局、青山伯耆守の寄進によるものだけに豪華絢爛である。江戸時代初期の建築様式をとどめている建物で、渋谷区指定有形文化財である。
  金王神社⑦
 源義朝に従い、保元の乱で功を上げ、その後頼朝の御家人として臣従した金王丸の像を祀る御影堂前の狛犬である。良いお顔である。
  金王神社⑧
 宝物館には算額が納められている。安政6年に奉納されたものである。左側の2問は正解だが、1番右の問題は答、術文ともに誤りであるという。路傍学会には手も足もでない、3次方程式が必要な難問である。これも渋谷区指定有形文化財である。
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  2. 神社
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橋のLandscape 21

中央区日本橋本石町 龍閑橋
   龍閑橋①
 中央区日本橋本石町四丁目、外堀通りの路傍である。低木の植込みの中にコンクリート構造物が見える。
  龍閑橋②
 角が丸い直角二等辺三角形が交互に並んでいる。
  龍閑橋③
 龍閑橋の親柱と桁が保存されているのである。龍閑橋は、大正15年に造られた日本で最初の鉄筋コンクリート製のトラス橋で、龍閑川に架けられていた。
  龍閑橋④
 江戸切絵図である。細い水色の線が龍閑川である。左上部に「竜閑橋」の文字が見える。龍閑川は、元禄4年頃、防火のために町人たちによって開削された掘割である。川は「竜閑橋」から図中で白く表示されている小伝馬町牢屋敷を経て「浜町川」に合流していた。
  龍閑橋⑤
 龍閑橋の脇、龍閑川の跡である。すぐ先にJRの架道橋が見える。
  龍閑橋⑥
 外堀通りに架かる架道橋は「龍閑橋架道橋」と呼ばれている。
  龍閑橋⑦
 龍閑橋架道橋の鉄骨は美しい。構造美である。
  龍閑橋⑧
 龍閑川跡を辿ってみた。歩き始めてすぐ、舞踊稽古所があった。ここだけ、落ち着いた空気が流れている。
  龍閑橋⑨
 途中に今川橋跡がある。この橋の付近で売られていたのが「今川焼」である。
  龍閑橋⑩
 両社稲荷神社、福田稲荷神社を経て地蔵橋公園に着く。公園の一角にある龍閑川埋立記念の碑である。裏面の碑文によれば、龍閑川は川幅が6間もあったこと、昭和23年に埋立が始まり25年に完了して、埋立工事費7千万円に対し、埋立地売却代金は7千5百万円であったことがわかった。埋立事業は黒字だったのである。
  龍閑橋⑪
 龍閑川児童遊園から振り返って見た龍閑川跡である。このモニュメントは川に架かっていた橋がモチーフなのだろう。
  龍閑橋⑫
 児童遊園の南側には竹森神社が鎮座している。江戸時代、この辺りには竹藪が多く、この名が付いたという。小伝馬町三丁目の守護神である。
  龍閑橋⑬
 竹森神社の裏手である。東京都下水道局が管理している都有地である。浜町川の跡らしい。この下に暗渠があるのだろう。龍閑川は浜町川を経て隅田川に繋がり、江戸の物流に貢献していた。機会を見つけて浜町川の跡地も辿ってみることとしたい。
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路傍祠のLandscape 35

渋谷区東 庚申橋供養碑
   庚申橋供養碑① 
  渋谷区東三丁目の路傍、画面右手電柱の横に路傍祠が見える。
  庚申橋供養碑②
 小堂の中に石柱が見える。庚申橋供養碑である。
  庚申橋供養碑③
 上部には青面金剛が浮彫されている。六臂の合掌像である。細かな彫りである。
  庚申橋供養碑④
 邪鬼と三猿である。寛政年間の猿は自由なポーズである。
  庚申橋供養碑⑤
 青面金剛の下には講中の方々の名が刻まれている。麹町、四ツ谷、瀬田、用賀の他、渋谷、池袋、目黒、荻窪など広い範囲にわたる地名が読み取れ、この橋が江戸時代に重要な交通路であったことがわかる。
  庚申橋供養碑⑥
 近くのNTT柱である。庚申の文字が見える。庚申がこの地域のアイデンティティーとして定着していることがわかる。
  庚申橋供養碑⑦
 庚申橋から見た渋谷川である。新宿御苑に水源を持ち、渋谷区、港区を通って東京湾 に流れ込む。稲荷橋の下流は開渠となっているが、コンクリートでがっちり固められている。
  庚申橋供養碑⑧
 庚申橋を渡り振り返ると、橋の右端に供養塔が納められている小堂が見える。今も橋の往来を見守っている。
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  2. 路傍祠
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橋のLandscape 20

江東区豊洲 晴海橋梁
   晴海橋梁①
 江東区塩浜二丁目、ツ目通りを歩いているとネットフェンス越しに線路が見えた。隣は駐車場になっている。線路の両側は擁壁があって高くなっているが、パイプ柵があるのでホームではないだろう。
  晴海橋梁②
 三ツ目通りの反対側である。こちらに線路は無いが道路状の空地が伸びている。廃線敷か。この先が見てみたくなった。
  晴海橋梁③
 三ツ目通りの西側の都道の路傍、先ほどの空地の先でもフェンスの向こうに線路が見える。この奥は運河だ。
  晴海橋梁④
 塩浜1丁目、越中島通り路傍である。細長い敷地の駐車場である。ここも廃線敷に違いない。
  晴海橋梁⑤
 駐車場の奥には橋台があり、そこから橋脚が見える。線路は運河を越えて豊洲へと向かっていたのだ。豊洲の廃線敷は遊歩道として利用されている。
  晴海橋梁⑥
 豊洲の街に入り、遊歩道をしばらく歩くと廃線敷は全く分からなくなってしまった。何かヒントは無いかと思い、豊洲の案内地図を見てみると・・・ 中央左部分に白い文字で「鉄道橋」とあるではないか。早速、水辺を通って行くことにした。
  晴海橋梁⑦
 晴海大橋である。橋の奥に見える建築中の建物は2020オリンピック大会の選手村となる建物群である。タワーは清掃工場の煙突である。
  晴海橋梁⑧
 春海橋の手前に、赤錆びたアーチがかかる鉄橋が残っている。
  晴海橋梁⑨
 鉄橋の袂である。厳重な立入禁止である。
  晴海橋梁⑩
 中央区側では鉄橋の上に樹木が生えている。その先では工事が行われていて廃線敷を辿ることができない。
  晴海橋梁⑪
 高層マンションの手前に残る晴海橋梁である。東京都港湾局専用線(晴海線)の鉄道橋として、1957年に竣工し、東京の物流、復興に大いに活躍したが、1989年に廃止された。変貌著しい豊洲の移り変わりを見つめてきた橋梁である。活用する方法はないものだろうか。路傍学会の興味は尽きない。
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界隈のLandscape 21

渋谷区円山町 円山町界隈
   円山町①
 道玄坂から滝坂道に入り円山町界隈を歩いた。まず神泉駅方向に向かう。渋谷丸山町会のHPによると、ファミリーマートの隣に見番があったとある。今は餃子酒場となっており、そうした風情は見つけられなかった。
  円山町②
 ここは「おんな坂」である。芸者が着物でも歩きやすいように段差が小さく作られているという。
  円山町③
 突き当り、コンビニの看板の下に石柱がある。「弘法大師 右神泉湯道」とある。円山町が花街となったのは、江戸時代から続いた弘法湯の前で明治20年頃に芸者屋が開業されたのが始まりという。その後、芸者屋、料理屋が増え、代々木練兵場将校達も遊びに来るようになり、大正2年に三業地の指定を受けている。1979年に弘法湯は営業を終えた。
  円山町④
 弘法湯跡に建つビルのフロア案内である。8階に弘法湯の名が見える。
  円山町⑤
 神泉駅前である。井の頭線のトンネルの右の階段を登る。
  円山町⑥
 いたる道の両側にはラブホテルが軒を連ねている。
  円山町⑦
 割烹料亭の竹垣がへこんでいるところがある。
  円山町⑧
 竹垣の凹みに地蔵尊が祀られていた。道玄坂地蔵尊である。300年ほど前に道玄坂上に建立され、戦後現在の場所に移転されたという。火災により二度焼かれているが、元の地蔵を固めて、その上に化粧をするようにして再生されている。
  円山町⑨
 路地を抜けた正面にあるおでん屋は昭和40年代まで料亭だった建物で、今も芸者衆を呼ぶことができる。1980年ごろまで三業地の賑わいは続いたが、時代とともに料亭の数も減っていったという。
  円山町⑩
 町の東側のランブリングストリートにはいくつものライブハウスが並び、この日も若者でごった返していた。
  円山町⑪
 花街から都内有数のラブホテル街となった丸山町だが、ライブハウスが立ち始めた所もある。これからどのような変貌を遂げるのだろうか。路傍学会の興味は尽きない。
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  2. 界隈
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青面金剛のLandscape 225

台東区谷中 西光寺
   西光寺①
 台東区谷中六丁目の路傍、西光寺である。
  西光寺②
 境内に入ると、塀に沿って石仏が並んでいる。
  西光寺③
 2体の大きな石仏が目立つ。また、閻魔や青面金剛、聖観音も並んでいる。閻魔は坐像が多いが、左端に見える閻魔は立像である。
  西光寺④
 左の大きな石仏は韋駄天である。走力に優れ韋駄天走りの語源となっており、速やかに邪神を除く仏法の守護神である。藤堂高虎が朝鮮から請来したものという。
  西光寺⑤
 右は十一面観音菩薩である。十一ある顔の中から最適な顔をもって人の心に語り掛け、人々を導いてくれる菩薩様である。
  西光寺⑥
 韋駄天の左には青面金剛も祀られている。六臂の合掌像である。
  西光寺⑦
 邪鬼(?)と三猿である。邪鬼はシュールで、どのような体勢なのか分からない。不聞猿は浮かんでいるかのようである。
  西光寺⑧
 塀の外にある石柱である。路傍学会は今、足を痛めているので、早く治るよう韋駄天にお願いし、帰途に着いた。
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  2. 青面金剛
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 東京東部を拠点として、路傍の風景について学際的に考察するブログです。

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